ドイツ国防軍のポーランド兵~ポーランド

第二次世界大戦で甚大な被害を受けたポーランドだが、その歴史に新たな側面が見えてきた。ナチス・ドイツに併合された地域に住んでいた数十万人のポーランド人が、ドイツ国防軍に召集されて戦ったという事実だ。このテーマは戦後、タブー視されたこともあって、詳細がまだ明らかになっていない。

このほど、その著作がドイツ語に翻訳された、カトヴィツェ大学のリシャルド・カチマレク教授(歴史学)によると、1941年から45年までに数十万人が国防軍兵士として戦ったという。確かな数字は今後の研究を待たなければならないが、教授は「最大50万人」と推測する。

ポーランド人が召集された理由には、この地域が歩んできた歴史が隠されている。ポーランドは18世紀のポーランド分割により消滅し、第一次世界大戦後の1918年までプロイセン(ドイツ)領だった。その結果、ドイツ系住民が数多く住んでおり、ドイツ文化の影響も強かった。

ナチス・ドイツは1939年にポーランド侵攻を開始したが、戦争に必要な人手を得るため、併合した地域で「民族リスト(Volksliste)」を導入した。これは、ナチスの見地から併合地の住民をその「ドイツ度」に沿って4つに分類したものだ。

第1グループは戦前から「『ドイツ民族』のために尽力してきた」と認められた者で、親や先祖がドイツ人であったかどうかは問われない。第2グループはポーランド領だったときに「ドイツ語とドイツ文化を守ってきた者」だ。両グループについてはドイツ国籍が付与され、ほぼすべての権利が保障された。第4グループは「ドイツ系ながら『ポーランド人』を自認するなど、政治的にポーランドに偏った者」で、将来的に条件を満たせばドイツ国籍取得が可能という位置づけだった。

今回のテーマで重要なのは第3グループだ。このグループは、「ポーランド化した」ドイツ系住民および「血統的・文化的にドイツ的傾向にある者(カシューブ人、マズーリ人、上シレジア人と、 『ダンツィヒ=西プロイセン帝国大管区』に住むポーランド人10万人)」が分類され、暫定的に国籍が付与された(当局によって随時はく奪が可能)。第3グループの人々の権利は次第に拡大していったが、兵役義務も生じた。

特に兵士が不足した1943年以降は当局によって勝手に第3グループに入れられた人が増え、次々と徴兵されていった。当年90歳のヤン・ノレクさんもその一人だ。1944年1月に召集を受け、イタリア戦線モンテ・カッシーノの戦いで、連合軍と戦った。皮肉にも、連合軍側ではポーランド亡命政府軍も戦闘に参加していた。

ノレクさんは「カペレ(礼拝堂)にいる米軍を攻撃せよ」と命令を受けたが、「ムジークカペレ(音楽隊)と一緒に米軍を攻撃せよ」と言われたと勘違いし、礼拝堂から出てきた米兵に脚を撃たれて捕虜となった。

ドイツに徴兵され、前線で英国軍の捕虜となったフランチシェクさんは、「捕虜収容所で奴隷のような生活を送る」よりはましだとポーランド亡命政府軍に志願し、連合国軍側で戦った。収容所ではポーランド人用のバラックにいたため、皆、ポーランドのために戦おうと一致したという。

今の我々から見ると、なぜ占領者であるドイツのためにすんなり戦えたのか、と不思議に思える。しかし彼らは、同じ場所に住んでいたにもかかわらず、国境が移動したせいで「親は『ドイツ国民』として生まれ、自分は『ポーランド国民』として生まれた」という何とも微妙な状況の中で育った。結果として自分が「ポーランド人」だとも「ドイツ人」だとも思えず、歴史的な地域に即し、例えば「上シレジア人」だと考えていた。

だから、ナチス・ドイツによる徴兵に遭えば「命令されれば仕方がない」と従った。もちろん、召集に背けば最悪の場合、家族ともども強制収容所送りという事情も働いた。「わしらはほとんどが代々、炭鉱夫をやって生きてきた。だから、あんまり深いことは分からない。ドイツ兵は『ナチ』というより『ドイツ人』だと思っていた」とノレクさんは語る。

ドイツによる侵攻前にポーランド国籍を持っていた人がどれぐらい徴兵されて、どれぐらい亡くなったのかはわかっていない。フランチシェクさんの村では住民の約7分の1に当たる500人が召集され、60人が帰らぬ人となったという。

戦後の社会主義体制下ではこのテーマは避けられ、元兵士の多くも「家族にさえ話していない」状況だった。今ようやく事実解明の端緒が開かれつつあるが、全体像は今後の研究を待つしかない。

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