ソ連末期の1987年に西ドイツの青年マティアス・ルストさんがセスナ機で赤の広場に着陸した事件が、28日で30周年を迎えた。当時ソ連軍で兵役に従事していた作家のウラジミール・カミネルさんは、これを「嘘と虚栄で固められた城を揺るがす小さな砂粒」だったと語る。
カミネルさんは前年に徴兵され、問題の5月28日にはモスクワから約200キロメートル離れた首都第2防衛線で無線兵として勤務していた。任務は担当空域の監視で、普段は週末にコルホーズ(集団農場)の経営委員長がどこかへ出かける小型機ぐらいしか見かけなかった。
カミネルさんによると、当時の兵役は2年で、初年兵がほとんどすべて仕事を引き受け、二年兵は寝て過ごす、というのが習わしだった。ルストさんのセスナ機で警報が鳴ったとき、二年兵のカミネルさんは、ちょうど枕を手に寝ようとしていたときだったという。
皆でレーダー画面を囲み、現れては消える物体を見ながら「なんだこれは」と首を傾げた。「どうすればいいんだ?」と問いながらも、行動を起こすのはためらわれた。だれも責任を取りたくなかったからだ。軍指導部も1983年の大韓航空機撃墜事件の教訓から民間機に対する攻撃をためらったと言われている。
カミネルさんは、ルストさんの飛行に意表を突かれた様子をこう語る。「敵の大群、ミサイル、爆撃機の編隊に攻撃を受ける―言ってみれば『この世の終わり』みたいなことを考えて防御線を張っていたら、ハンブルク郊外で育った青年がちっぽけな飛行機で赤の広場まで飛んできて、『僕らは隣人じゃないか』なんて言うんだもの。おかしな平和の使徒だよ。」
この事件は、ゴルバチョフ書記長(当時)の「ペレストロイカ(改革)」政策に反対する軍首脳部の更迭につながったが、カミネルさん個人にとっては後のドイツへの移住につながった。「東西ブロックがあんなに敵対するなかで、西側から飛行機を飛ばして赤の広場に着陸できるんだったら、俺も西側に行ける、と確信した。ソ連は閉じた世界だと思っていたけれど、行き来できることがわかったんだ。」
カミネルさんの兵隊仲間もみんなルストさんの行為を「かっこいい!」と思ったという。「兵役中の僕らはみんなで金を節約して、将校用食堂でイチゴジャムを手に入れる、なんて事しか考えてなかった。生きること自体に時間を割き、手間をかけなきゃならなかったからだ。そうしたら別の世界から来た同い年の人間が赤の広場に降り立って『初めまして、マティアスです。よろしく』なんて挨拶するんだから、自分らが幼稚に思えたよ。」
「今から考えると、マティアスはパフォーマンスアーチストだった。ロシアにとってのプッシーライオットと似てる。彼らのパフォーマンスで、国の正体が見えてくる。小さな砂粒みたいな存在だけど、嘘と虚栄で固められた城を揺るがす力があったんだ。」
そして1989年にベルリンの壁が崩れる。「西」に向かう決意をしていたカミネルさんは翌年、「飛行免許もセスナ機も持ってなかったから、ベルリン行きの列車に乗り込んだ。」西の様子を見てみようという軽い気持ちだったが、気が付くと定住していた。ベルリンでの日常を軽妙に描いたエッセイをきっかけに、ロシア人のドイツ語作家として人気を博している。