ソ連が人類初の人工衛星「スプートニク(同行者)」を打ち上げて今月4日で丸60年が経った。当然、米国が最初に成功すると思われていただけに、米国を始めとする西側諸国には「スプートニクショック」が走った。ここから宇宙開発競争が急激に激しさを増したのだった。
米国とソ連は1950年代半ば、ともに地球観測を目的に開発を予告した。米国が先を越すと思われていたが、ロケット打ち上げに失敗。ソ連が大陸間弾道ミサイル「R7」を改造して予想外の1番乗りを果たした。
スプートニク1号は上空228~947キロメートルの楕円軌道に乗り、96分で地球を1周した。ロケットが発射されたのはカザフスタンのバイコヌール基地。スタートから5分後には「ピー、ピー、ピー」というおなじみの信号音が届いたが、周回軌道に乗ったのが確かとなったのは1時間半後にスプートニクがソ連上空を通過したときだった。以来、世界のアマチュア無線士はスプートニクの電池が切れるまでの約3週間、こぞってその信号を受信した。
スプートニク1号は、もともと計画されていた宇宙船が重量超過のため打ち上げ不可能なことがわかり、設計主任のセルゲイ・コロリョフが米国の先を越すためだけに作った苦肉の策だった。もちろん、その事実は秘密にされていたが、「技術力でソ連を大きくリード」していると信じていた米国人には大きな打撃だった。人工衛星打ち上げの成功は、ソ連が大陸間弾道ミサイルを米国本土まで飛ばすことができる事実を裏づけしていたからだ。これが世に言う「スプートニクショック」だ。
スプートニクショックを機に、ソ連と米国の宇宙開発競争が過熱。1969年の米アポロ11号の有人月面着陸で頂点を迎えた。その後は冷戦の緊張緩和などで、競争は穏やかになっていく。
現在の宇宙開発は大量の人力・財力をつぎ込んだ当時の研究成果の延長にある。以前のような派手さはないものの、スプートニクやアポロを子ども時代に体験した研究者らが、あのときの胸のときめきを秘めながら、今でも新しい発見を求めて学究に携わっている。