チェコスロバキア(当時)の民主化運動「プラハの春」がソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍に弾圧された「チェコ事件」から、今月20日で50年が経過した。ドイツのノーベル賞作家ハインリヒ・ベルの息子、レネ・ベル氏(70)はこの時、偶然にプラハに居合わせた。
民主化運動を支えたチェコスロバキア作家同盟に招かれた父とともにベル氏がプラハに到着したのは、1968年8月20日。ヴァツラフ広場の近くのホテルに宿泊した。まさにその夜、ワルシャワ条約機構軍の戦車がプラハに乗り込んで来たのだった。
翌朝、誰かが部屋の扉をたたき「Wir sind besetzt(We’re occupied)!」と叫んだとき、ベル氏らはすぐには何のことかわからず、迎えに来るはずの人が時間がなくて来られないのかと思ったという。扉を開けて初めて、「兄弟国」の軍隊がドプチェク第一書記の進める「人間の顔をした社会主義」を力づくでつぶすために侵攻してきた、「占領された」ことだと分かった。
「チェコの民主化運動と文学がそれに果たす役割」がテーマだった作家同盟の会議は言うまでもなく中止となり、当局はホテルにいた外国人に即時出国を求めた。しかしベル氏らは25日までとどまった。
当時20歳だったベル氏は、他の若者と同じようにドイツで学生運動に参加していた。それもあり、チェコ民主化運動についても強い関心を抱いていた。プラハにいた5日間は外に出て、写真を撮ったり、ビラを集めたりした。
印象に残っているのは、兵士との対話を求めた市民の姿だ。やっと手にした自由の意味を伝えようという熱意に燃えていた。ベル氏が見た「抵抗運動」は、一つの例外を除いてすべて非暴力だった。
話しかけられたソ連兵は大半が若者で、自分が「どこに」、そして「なぜ」いるのか知らなかった。同じような歳のプラハの若者が戦車によじ登り、入り口となっている上部のふたを開けて話しかけてきても、どうすべきなのか戸惑っていた。
侵攻直後、未検閲で発行された新聞は西側諸国に支援を訴えた。しかし、1953年のベルリン暴動、56年のハンガリー動乱と同様、ソ連との悪化を恐れる西側諸国は傍観を決めた。
ベル氏のいた5日間でも、日に日に市民はあきらめの感を強め、多くの人が亡命した。再び、民主化前の重苦しい静けさが広がっていった。
プラハの春の鎮圧で、社会主義諸国は停滞の70年代、80年代を経験する。チェコスロバキアではようやく89年秋、老年のドプチェク元第一書記も支援した「ビロード革命」が起こり、ソ連の支配下から脱することができた。
ベル氏は、1968年を振り返り、一党独裁廃止や基本的人権の尊重、経済民主化などを掲げた「プラハの春(民主主義的社会主義)」がもしも実現していたら、と思いをはせる。当時「第三の道」として盛んに議論されていた社会主義の民主化が進んでいたとしたら、今とは違う世界を作っていくモデルとなっていたかもしれない、と考えるのだ。