チェコとスロバキアの微妙な関係

先月28日はチェコスロバキア共和国がハプスブルク・ハンガリー帝国(二重帝国)から独立して100周年だった。現在は別の国となったチェコとスロバキアが当時、一つの国を作ったのは自明の理ではなかった。チェコ人とスロバキア人が、言葉こそ似ているとはいえ、異なる道筋をたどってきた歴史があるからだ。

両民族は19世紀、ハプスブルク帝国の統治下で暮らしていた。しかし、帝国が普墺戦争に敗北して弱体化し、1867年、ハンガリー人の分離独立の要求に妥協して二重帝国が誕生し、スロバキアはハンガリー王国の統治下にはいった。スロバキア人はハンガリーの「マジャール化政策」の影響をまともに受け、高等教育への道が閉ざされるなど、チェコ人とは異なる状況に置かれた。

チェコ人とスロバキア人が共同で一つの国を建国するというアイデアが浮上したのは19世紀半ばだった。しかし、当時はロシアも含めた反スラブ同盟の結成や、二重帝国内でスロバキア自治州を作るといった様々な意見があり、「チェコスロバキア」はそのうちの一つに過ぎなかった。

それが変わったのは第一次世界大戦だ。後にチェコスロバキア共和国の初代大統領に就任するトマシュ・マサリクは、二重帝国からの独立運動の活動家だったが、大戦開戦後、国家反逆罪に問われるのを恐れて連合国側(敵国側)へ亡命した。そして「スロバキア人はチェコ人である」と宣言し、チェコスロバキア建国に向けて連合国政府に積極的に働きかけた。英仏ジャーナリストの助けもあり、次第にマサリクらのグループが「まだ存在しない国の亡命政府」と認知されるようになった。これには連合国内に住んでいたチェコ・スロバキア人や、捕虜となったチェコ・スロバキア人兵士らから成る「チェコスロバキア軍団」が連合国側について戦ったことも大きく貢献した。

二重帝国が第一次大戦後に解体し、チェコスロバキアがめでたく独立したが、その後はチェコ人とスロバキア人の間に軋みが生じる。「スロバキア人に対するチェコ人の優越意識」が理由の一つといわれるが、要職に就く人が少ないといった事から感じられるスロバキア人の非差別意識が1939年のナチス傀儡政権「スロバキア共和国」の成立につながった面もあるだろう。

第二次世界大戦後はソ連の勢力下におかれたが、1989年の冷戦終結後の体制転換で民主制のチェコスロバキア連邦が建国された。その後、93年に双方の合意の元、チェコとスロバキアの分離が成った。

事が平和裏に運んだこともあり、両民族の関係は「これまでで最高」と言われている。28日にプラハで開かれた建国百年祭にスロバキアの大統領と首相が出席したのも、その表れだ。スロバキアはチェコと分離して独立した1月1日を建国記念日と定め、28日は祝日としていない。

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