スカーフは個人の判断~トルコ

ソーシャルメディアに大勢の若いトルコ人女性が「ヒジャブ(頭に巻くスカーフ)を着けないことにした」という行動を写真で投稿したことが議論を巻き起こしている。「(因習からの)解放」と歓迎する声がある一方、「裏切り行為で、裏に何らかの政治的陰謀があるのでは」と批判・憶測する声も聞かれる。分かりにくいのは、この批判の声がイスラム保守派だけでなく、世俗派(ケマル派)からも聞こえることだ。

女性たちは、ヒジャブを巻いた姿とヒジャブをとった姿の両方の写真を公開。その数は数千にも上っている。そのうちの一人でジャーナリストのセベチさんは、「個人的な判断で、政治は関係ない」と話す。「ヒジャブを外すことが『解放』とは限らない。ヒジャブを巻くのが『近代からの解放』と考える人もいる」とし、一義的な判断はできないという立場だ。

やはり投稿者の一人であるポスタジュさんは補足するように、「ヒジャブを巻いていたのも自分の意志、外したのも自分の意志」として「解放」云々とは関係ないと話す。「ヒジャブを巻くかどうかは、どんな上着を着るかというのと同じに考えられなければならない」という意見だ。

これは、ヒジャブが政治的立場を表すシンボルとされてきた歴史を物語っている。1980年の軍事クーデターで、世俗主義を奉じる軍は大学や公的機関におけるヒジャブ着用を禁止した。1997年の軍による政治介入でも、その解釈が厳格化された。つまり、ヒジャブは「ケマル・アタチュルクを祖とするトルコの世俗主義(政教分離)を脅かす存在」だったということだ。

親イスラムである公正発展党(AKP)のエルドアン政権が、ヒジャブ着用禁止を段階的に解いたのに政治的な意味があったのも明白だ。

そんな社会で、女性たちが「ごく個人的な判断で」ヒジャブを外すことにした、そしてそれを公にしたというのは、ヒジャブを政治的脈絡でしかとらえられない人々には理解不能なのだろう。

今までの型を破って考える新しい世代が生まれているのは、新しい時代が生まれ始めている印だ。自らの見方(偏見)を反省して、彼らの話をただ聞いてみることで、今まで思いつかなかった未来像が見えてくるかもしれない。

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