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2014/9/17

コーヒーブレイク

弔いも政治次第~ベラルーシ

この記事の要約

ベラルーシの首都ミンスクから南東12キロに位置するマリィ・トロステネツには、第二次世界大戦中にナチス・ドイツの強制収容所があった。少なくとも6万人が虐殺され、「ベラルーシのアウシュヴィッツ」と呼ぶ人もいる地だ。しかし、そ […]

ベラルーシの首都ミンスクから南東12キロに位置するマリィ・トロステネツには、第二次世界大戦中にナチス・ドイツの強制収容所があった。少なくとも6万人が虐殺され、「ベラルーシのアウシュヴィッツ」と呼ぶ人もいる地だ。しかし、その知名度は低く、終戦から70年近く経っても犠牲者を追悼する場さえ設けられてこなかった。なぜなのだろうか。

トロステネツ収容所には、オーストリアやドイツの都市、チェコのテレジン収容所から移送されたユダヤ人や、捕虜となった赤軍兵士、ベラルーシのパルチザンなどが捕らえられていた。犠牲者の多くが収容されることもなく、到着後すぐに、近くのブラゴフシュチィナの森で殺された。

ソ連は第二次大戦で一国として最大の2,000万人の死者を出した。しかし、国の栄光を示す「英雄的」犠牲はたたえられても、ナチスに踏みにじられた普通の人々の苦難からは意識的に目を背けていた。

特に、ユダヤ人に対しては国民の差別意識も強く、虐殺を悼む雰囲気はなかった。トロステネツ収容所で生き残った西欧出身のユダヤ人は約20人。そのうちの数人は赤軍による解放後、「スパイ」としてソ連の収容所に送られ命を落とした。

1947年にミンスクのゲットーを生き延びたユダヤ人のグループが追悼の碑を建立した。そのうちの数人も労働収容所に送られた。50年代、60年代にもユダヤ人が慰霊祭を執り行えば、ソ連当局が流行歌を大音量で流して妨害した。

ミンスクで41年に処刑され、英雄としてたたえられていたパルチザンの少女がユダヤ人だったことが60年代末に明らかになったとき、ソ連当局はこの事実に触れることを禁じた。当時、ソ連はイスラエルと対立関係にあり、ユダヤ人がベラルーシの抵抗運動のシンボルになってしまうと都合が悪かったのだ。

トロステネツ収容所に追悼の場がないもう一つの理由は、ブラゴフシュチナの森にスターリンによる粛(しゅく)清の犠牲者が埋まっているからだとみられている。ソ連政府は戦後まもなく、「赤軍の勇敢な戦い」のおかげでソ連領にはナチスの強制収容所は「存在しなかった」と宣言した。その背景には、国際機関による調査を避けたい思惑があったという。調査が実施されれば、スターリンによる人道的犯罪をも明るみに出てしまうためだ。スターリン時代の「影」の歴史に触れることはベラルーシでは今でもタブーに近い。

このような状況の中で動きをもたらしたのは、皮肉にもウクライナ紛争だった。ルカシェンコ大統領は今年6月、トロステネツ記念公園の定礎式を執り行い、「ファシズムが再び頭をもたげている」と演説で注意を呼びかけた。ベラルーシ政府は、ヤヌコビッチ元大統領失脚後のウクライナ政府を「ファシスト」として全面否定している。政府高官は同時に、1943年のナチス親衛隊(SS)によるハティン村の破壊にウクライナ人隊員がかかわっていたと強調し、ナチスの蛮行と今日のウクライナ政府を重ねているのは明らかだ。

政治的理由でなおざりにされていた記念公園整備が政治的理由で進み出す――強制収容所の犠牲者は未だに政治に翻弄されている。ベラルーシが国として本当に死者を悼む日はいつ来るのだろうか。