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2014/10/22

コーヒーブレイク

英国のシンドラー

この記事の要約

「英国のシンドラー」と呼ばれる英国人ニコラス・ウィントンさん(105)が、チェコ最高位の勲章である「白獅子」賞の授与式に出席することが決まった。第2次世界大戦前にチェコのユダヤ人の子どもたちを英国へ移住させた「チェコ版キ […]

「英国のシンドラー」と呼ばれる英国人ニコラス・ウィントンさん(105)が、チェコ最高位の勲章である「白獅子」賞の授与式に出席することが決まった。第2次世界大戦前にチェコのユダヤ人の子どもたちを英国へ移住させた「チェコ版キンダートランスポート」を組織・実行した功績をたたえるものだ。当初、健康上の理由で欠席する方向だったが、今月28日にプラハ城でゼマン大統領から勲章を直接受け取る運びとなった。

「キンダートランスポート」は、1938年11月9日、ドイツおよびオーストリアにおけるユダヤ人に対する公然の暴力行動(11月のポグロム=いわゆる「水晶の夜」)を受けて、英国政府がドイツ、オーストリアなどに住んでいたユダヤ人の青少年を受け入れた史実を指す。ナチス政府のユダヤ人迫害が周知の事実となった後でも、ユダヤ人を受け入れる国は少なく、青少年だけとはいえ、翌9月1日のドイツのポーランド侵攻までに約1万人が対象となり、その命を救ったことは評価に値する。

しかし、ウィントンさんのキンダートランスポートは公的なものではなく、あくまでも私的な行動だった。これが、自らの工場で働いていたユダヤ人1,200人を救ったオスカー・シンドラーや、外務省の命に背いてリトアニアのユダヤ人に日本の通過ビザを発行して約6,000人を救った杉原千畝と共通するところだ。

38年12月、スイスに休暇へ向かう直前に、ウィントンさんの元に英国チェコスロバキア避難民支援委員会の友人から電報が届く。「君の助けが要るからプラハへ来て欲しい」――ヒトラーが併合したズデーテンラントから逃げてきた人々の収容所を訪ねた彼は、ユダヤ人の子どもたちを救うため、活動を始める。

英国政府から◇「里親」がいること◇帰国時の旅費として50英ポンド(今日の価値で約1,500ユーロ)を保証金として納めること――を条件に、17歳以下の青少年の入国を許可するとの約束を得て、昼は証券取引所で仲買人の仕事を続けながら、夕方と夜に里親探しと資金集めに取り組んだ。新聞に候補となる子ども全員の写真を掲載するなどした結果、翌39年3月14日に最初の「チェコ版キンダートランスポート」が英国に向かった。ドイツがボヘミア、モラビアを占領する前日のことだった。

以降、8月2日までに669人の青少年が英国に到着した。9月3日に最後のグループが出発することになっていたが、英国の参戦で列車は発車できなかった。列車は数時間後にどこかへ行ってしまい、乗車していた子どもたち250人の消息も途絶えてしまった。ウィントンさんの脳裏には、今でも駅で待っているこれらの子どもたちの様子が焼きついているという。

ウィントンさんは戦後もユダヤ人の子どもたちの救出活動に言及しなかった。後のインタビューで語ったように「何が起こっているかを見て、自分に出来ることをしただけ」と思っていたためだ。このため、妻のグレーテさんでさえ、その功績を知らなかった。1988年にグレーテさんが屋根裏で偶然、英国に到着した子どもの名前などが記された当時のスクラップブックを発見し、体験を語るように薦めた結果、新聞に取り上げられて世間を驚かせることになったのだ。

その後、ウィントンさんの元には、プラハから英国に逃げてきた、あのときの子どもたちの感謝状が多く届いた。呼び鈴が鳴りドアを開けると、年齢を重ねたあのときの子どもたちが立っていた。

また、ウィントンさんは勇気と行動力をたたえられて、チェコのトマシュ・マサリク勲章を受勲したほか、プラハ市の名誉市民となった。英国でも爵位を受けた。両親がキリスト教に改宗したユダヤ人だったため、イスラエルが非ユダヤ人に授与する「諸国民の中の正義の人」には選ばれていない。