親がいても飢えた日々~東プロイセンの帰還難民

第二次世界大戦後、ロシアとポーランドに編入された旧ドイツ領東プロイセンは、ほとんどのドイツ系住民がソ連軍の迫る大戦末期に西へ避難した。親に死なれたり、はぐれたりした子どもたちが森に隠れ、飢えと闘いながら自ら食料を探して暮らした「ヴォルフスキンダー(オオカミの子どもたち)」のエピソードは以前にも紹介したが、これは孤児たちだけの運命ではなかった。

ドイツ・ブランデンブルグ州に暮らすブルーノ・ディットマンさん(82)は1936年12月にリトアニア国境沿いのアイトクーネン(現チェルニシェフスコエ)で生まれた。ソ連軍の攻勢が激しくなった1944年に母と弟2人とともに西プロイセンに避難、その後、さらに西へ逃げ、バルト海沿岸のドイツの町バルトで終戦を迎える。しかし、ソ連軍占領下のバルトでは難民に食料切符は支給されず、「故郷」への帰還を余儀なくされた。

戦禍の後にも家は壊れず立っていた。しかし帰宅後すぐにソ連兵に立ち退きを迫られ、隣村の空き家の一室をあてがわれた。母親は強制労働として農作業をしなければならなくなった。報酬は1日にキャベツのスープ1杯とパン200グラムだけ。家族の分はない。

この時からブルーノさんは2歳下の弟とともに食べ物探しに明け暮れた。空き家の庭で木の実を摘んだり、ジャガイモなどの根菜を掘ったり、穀物の実を集めてコーヒーミルで挽いて食べた。飢え死にした牛や馬の肉も食べた。夏には弾痕にたまった水に暮らすカエルを空き缶で煮た。

終戦後初めの冬には、母の言いつけに従い、弟を連れて戦争の影響が小さかったリトアニアに物乞いに行くようになった。リトアニアには農地が残っており、収穫があるとうわさになっていた。リトアニアの人は親切で、たいていどの家でもパンやスープをくれた。時には泊まらせてくれるところもあった。お礼に雑草取りをしたり、アヒルの番をした。

ロシア人移住者に場所を譲り、リトアニア国境から30キロほど離れたダンツケーメン(現ソスノフカ)へ移ってからも、ブルーノさんは弟と一緒にリトアニアへ通った。歩くには遠くなったため、無賃乗車で汽車に乗ったりもしたが、車掌に見つかり孤児院に送られそうになった。ある人が助けてくれて難を逃れたが、それ以降は汽車には絶対に乗らなかった。片道30キロをひたすら歩いた。

ディットマン一家は48年にようやく出国を許され、ソ連軍占領下のドイツ東部(のちの東ドイツ)に移住した。3年半を食料探しに費やしたブルーノさんは12歳で3年生に編入となった。

産業取引事務の仕事に就き、結婚し、子どもも育てあげた。91年には母を看取ったが、お互いにあの3年半のことは話さないで終わった。82歳の今でも気を付けないと食べ過ぎてしまう。食べ物を探すだけで過ぎていった時が身体の芯に残っている。

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