2015/5/13

コーヒーブレイク

霧に包まれた子ども時代~プーチン大統領

この記事の要約

プーチン大統領の私生活はあまり知られていない。生い立ちとなればなおさらだが、独週刊紙『ツァイト』の取材によると、グルジアにプーチンの「実の母」を名乗る女性がいるという。 その人はヴェラ・プチーナさん(89)。1926年に […]

プーチン大統領の私生活はあまり知られていない。生い立ちとなればなおさらだが、独週刊紙『ツァイト』の取材によると、グルジアにプーチンの「実の母」を名乗る女性がいるという。

その人はヴェラ・プチーナさん(89)。1926年にウラル地方オチョル近郊の村に生まれ、学校卒業後に農業機械の機械工となった。職業研修で知り合った男性が既婚者と知らずに妊娠し、1950年10月7日、両親のもとで男の子を産む。「ヴラジミル」と名づけ、「ヴォヴァ」の愛称で呼んでいた。

ヴォヴァが2歳のときに、遠く離れたウズベキスタンのタシケントで職業研修を受け、後に夫となるチェチェン人と知り合う。結婚して夫の郷里のグルジアは首都トビリシから60キロメートル離れたメテヒに引越し、ヴォヴァも手元に引き取った。しかし、夫との子どもも生まれ、生活が貧しいなかで夫は実の子でないヴォヴァを疎むようになる。

そして数年後、ヴェラさんの知らないまま、ヴォヴァが養子に出される。ヴェラさんはヴォヴァを探して引き取り、自らの両親の元に送るが、ヴォヴァの祖父である父親の病気で、ヴォヴァをやむなくレニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)に住む遠縁のプーチン夫妻に託すことになる。

このプーチン夫妻が、公に大統領の両親とされている。プーチン夫妻は登録の際にヴォヴァの生年月日を実際よりちょうど2年遅い1952年10月7日にした。

ここまでであれば、ただのお話に過ぎないかもしれない。しかし、プチーナさんの話を聞いたチェチェン人のダウドフさん(仮名)が、この事実を知らせようとしたロシアの石油会社アライアンスの社長と知り合いのジャーナリストが2000年3月に飛行機事故で死亡する。ダウドフさんは同じ月に、トルコの新聞を通じた報道までこぎつけたが、ロシアからトルコ関係者に「ガスパイプラインプロジェクトの中止」の圧力がかかり、予定されていたテレビでのドキュメンタリー放送は実現しなかった。

同じ年の10月には、このニュースを取り上げようとしたイタリア人ジャーナリストがダウドフさんから「証拠」を入手した翌日に他殺体として発見される。さらに、2003年9月にはダウドフさんと同姓同名の人物が他殺体として見つかる。

ヴェラさん宅には「証言」後に警官と看護士を名乗る人物が来てヴェラさんの血液を採って消えた。秘密警察が家中を探して古い写真など、証拠になるようなものを持ち去った。そして、村の住民も含めて「二度とそのような話をしないよう」脅かしていったという。

2000年3月といえば第二次チェチェン紛争の最中で、プーチン大統領が初めて正式に大統領として選出された選挙の直前に当たる。この時点で「チェチェン人の養父を持つ私生児」とされれば大統領にはなれなかったかもしれない。

そのタイミングから言えば、チェチェン独立派側の謀略である可能性もある。ただ、「実の母」でないのであれば、なぜヴェラさんが殺害の対象とならなかったのか、それが「実の母」説の信憑性を高める結果となっている。