2015/7/15

コーヒーブレイク

ユダヤ人慰霊碑を建立~ウクライナ

この記事の要約

ウクライナ西部の5町村で先ごろ、ナチス・ドイツに殺害されたユダヤ人住民の慰霊碑の除幕式が行われた。米国ユダヤ人協会(AJC)など外国の組織と地元の組織でつくる「記憶を守る会」が設置したもので、一般のウクライナの戦争犠牲者 […]

ウクライナ西部の5町村で先ごろ、ナチス・ドイツに殺害されたユダヤ人住民の慰霊碑の除幕式が行われた。米国ユダヤ人協会(AJC)など外国の組織と地元の組織でつくる「記憶を守る会」が設置したもので、一般のウクライナの戦争犠牲者と区別して追悼する本格的な試みとしては初めての事例だ。

慰霊碑が建てられたのは、リヴィウ市を中心とする半径200キロ圏内にある、ラヴァ・ルスカ、キシリン、オストロジェツ、バルキウ、プロキドの5町村。ナチス侵略前には住民のユダヤ人比率が最大8割にも達していた地域だ。

ユダヤ人虐殺はアウシュビッツ強制収容所のガス室のイメージが強い。しかし、ウクライナで殺されたユダヤ人150万人の大半は射殺された。ドイツ軍は連行したユダヤ人を、穴の中に立たせて何百人、何千人と殺し、その後は土をかぶせて去って行った。現場は多くの場合、村はずれ、町はずれで、他の住民が目撃したケースも少なくない。

パリに拠点を置き、旧ソ連における大量銃殺を調査する「ヤハド・イン・ウヌム」が虐殺現場を特定し、その地に記念碑が建てられることになったときも、当時子どもだった目撃者の証言が手掛かりになった。そして、ソ連崩壊直後の時期とは比べ物にならないほど、市民の関心は強かった。

記念碑の除幕式にはウクライナ議員のほか、県知事、各市町村の長らが出席。地元の歴史を調べる生徒らとその教師も参列した。

ソ連時代の公式な歴史解釈では、ナチスのユダヤ人迫害の犠牲となったウクライナ人は、他の対独戦の犠牲者と同列に扱われた。また、犠牲者の中では軍で戦って死亡した兵士が英雄として強調され、一般の「弱い」犠牲者は軽視された。

他の事例でも言えるが、ソ連時代は「お上」の歴史解釈を受け入れなければならなかったため、その後も、市民が自分で判断するということに慣れていなかった。

それが、今回のユダヤ人慰霊碑は違った。「上」の解釈を待たずに、自ら調べ、考える人々の顔が見えた。民主主義の基本である「個人」が生まれつつあるようだ。

それでも課題はある。ユダヤ人殺害にはウクライナ人も加担した。この重い事実は、ウクライナ人が長い間、沈黙を保った原因の一つなのだが、これまでのところ、ウクライナ人の共通認識とはなっていない。

ユダヤ人の団体はしかし、ウクライナでユダヤ人虐殺が言及されることになっただけでも大きな進歩と評価している。言葉が交わされるようになれば議論も起き、歴史理解が深まっていくと考えている。